ホームランボール

今日は3件の要望請け。里道や国有地の件、生活に関わる件でした。

それぞれ所管が異なるので明日中には担当課へ要望に行くようにします。

それにしても暑すぎますね(-_-;)。先日の断捨離で出てきた暑かった時の

思い出の品があったので紹介します。ちょうど28年前の8月、今日のように

暑かった日に行われた中学生活最後の少年野球の大会。スコアは覚えていま

せんが負けたので最後の試合でのホームランボールです↓。

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ちょっとだけ私の野球人生を。私の野球人生のMAXは小学5年生~中学2年生。

必ず先輩たちがいるときからレギュラー。先輩たちよりも打って守って投げる

のは長けていたかと思います。その証拠にというか。小学6年生の時の監督さんが

元プロ野球選手で、その息子さんはPL学園で桑田さんたちとプレーし、当時、

PL学園のコーチもされていました。ある時、私の父に監督さんからいずれPL

学園で頑張らせたいから入学しやすいように中学校を大阪に出させないかという

相談がありました。父は喜んでいましたが、私は即答。行かない。彼女がいるから。

つまらん理由です。それからも好調は止まらず、中学2年生の時も常に上位打線を

任されたりピッチャーをしたり。ですが、練習が誰よりも嫌い。努力もせず勘だけ。

練習は嫌いなくせに打つこと打つこと。今でもなんであんなに打てていたのか

信じられません。そんな感じでしたので間違いなく調子に乗っていました。

そんなたいすけ少年、忘れられない大きな大きな罰が。中学2年生時、先輩たちの

最後の夏の大会で3番バッター。先輩たちの最後なので絶対に勝たせてあげようと

臨んだのですが、まさかの4三振。しかも、すべて得点のチャンスで。先輩たちに

申し訳なく試合終了後から指宿~鹿児島までずっと泣いていました。。そこでやっと

自分の愚かさというか大事なことに気付かされました。それからは誰よりも練習に励み、

努力を重ねましたが、中々以前のようなプレーは出来なくなりました。今に至ります。

この経験は、今の少年団の指導に生かしています。子供たちがなるべく道を間違えない

ようにと。中学3年生の時は、監督に日本一打たない4番バッターと言われ続けました。

ホームランボールの話に戻りますが、そんな状況で迎えた最後の大会。今まで一度も

応援に来れなかった父が作業着のまま初めて応援に。相手ピッチャーは好投手。のちの

実業のエース。中学校生活最後の打席。今でもハッキリと覚えていますがボールがスロー

モーションのように見え。バットを思いきり振り抜いた打球は遥か彼方へ。当時、生活が

苦しく毎日働き続け、試合を見ることもなかった父に贈ったホームランボールでした。

 

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