卒業式

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今日は↑の子供たちの卒業式でした。PTA会長として卒業式に出席させて

いただきましたが、例年あるPTA会長の祝辞はなし(-_-;)。一言でも言葉を

贈りたかったですが。しかしながら、コロナ禍においてこの子たちの卒業式

に立ち会えただけでも幸せですね。毎年、卒業式には必ず教え子がいるので、

嗚咽するぐらい泣いてしまいます。色々なことがよみがえり。今回は、短縮

バージョンなので最後の素晴らしい合唱もなく、嗚咽回避と思いきや。最後に

以前、収録した3年生の全体合唱の映像がサプライズで流れ。それに映る教え子

たちを見ると嗚咽が始まりました(-_-;)。最後に席を立ち、退場するときはひとり

ひとりの勇姿をしっかりと目に焼き付け。いつものことですが、心の中では

『行かないで~』と叫びながらも、もっともっと成長しますようにと祈りながら。

私は寂しさのほうがかなり大です( ノД`)。これからのご活躍を期待しています。

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保護者の方がわざわざ撮って送ってくれました。↑のイラストの教え子たち。

こんなに立派になりましたよ。誰一人かけることもなく卒業式を迎えてくれた

ことに感謝。この写真はまた私の宝物になります、ありがとうございました。

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↑は九州大会でのピンチ時。こんなに小さかったのに(^_^;)。懐かしい。

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↑は昨年の卒業式。昨年は出席さえ出来なかったので有難いです(*^▽^*)。

市役所(委員長報告打合せ)

島津義弘公

昨日、少年団の練習の途中で抜け出し、練習着の上からシャツ、

ネクタイ、背広を着用し小野にあるあけぼの幼稚園に。

歴史のことはよくわからないのですが(^_^;)、島津家17代当主

島津義弘公のゆかりの地ということで、あけぼの幼稚園に看板設置。

その除幕式にお呼ばれしたので参加してきました。島津義弘は有名な

戦国武将のひとりで、『鬼島津』という異名がつけられていたそうです。

そんな島津義弘公が何の縁?実は義弘公の奥様が現在のあけぼの幼稚園

があるところにあった園田家の出身ということです。お二人のご子孫が

その後の島津家を継いでいかれたそうです。ちなみに宰相(さいしょう)夫人。

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↑の看板があけぼの幼稚園のフェンスに設置されました。このイラストは

志学館大学の学生が小野の子供たちにも興味を持ってもらいたいという

願いを込めて、漫画チックに描いたそうです。それにしても、こんな身近な

ところに凄い方の出身地があったなんて。玉江校区にとって貴重な史跡です。

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宰相夫人が大根を献上したのがきっかけというのも歴史書に載って

いるようです。よっぽど可愛い娘さんだったのでしょうね(^▽^;)。

現在、義弘公を大河ドラマの主役にという動きがあるようですので

出来る限りの協力をしていきたいです。大根が繋いだ縁が鹿児島の藩主

の存続に。なんか素敵ですね。ちなみに私たち夫婦はお互いの貧乏

生活が繋いだ縁(^_^;)。そのせいか、今も変わらずです。残念(-_-;)。

 

色紙

私の部屋に長男が鹿児島工業の後輩たちからもらった色紙が。

初めて読んでみました。ほとんどの後輩たちが優しくしてくれて

と。ゆうとさんのようなバッティングができるようにとも。

それを見ながら『へぇ~』。そんな一面もあったのですね。

長男の工業ソフトは期待していたのですが。2年生の頃から

重要な打順を任せていただき、それなりの結果を。3年生が最後の

大会で負けている時に、逆転満塁ホームランを打ってくれたのを

覚えています。満塁ホームランを打ってくれたことより、補欠で

試合に出れない3年生の手袋をつけて、試合に臨んでいたことが

嬉しかったです。3年生の夏も終わり、いざ自分たちの時代。これから

どれぐらい頑張ってくれるのだろうと少し楽しみにしていたのですが。

まさかの修学旅行中に足首を大骨折。選手生命を絶たれました。残念。

これまで何だったの?正直、腹が立ちました。それからというものあまり

長男とは語る事もなく。今は卒業して東京に。この色紙を見て、長男が

頑張ってきたことや先輩や後輩たちに慕われていたんだということを

少しだけ理解出来ました。ちょっとだけホッと。最後の大事な時期に

大ケガをして試合に出ることもなくなりましたが、これからの人生に

おいては、ずっとレギュラーとして活躍してくれることを願っています。

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二週間が経ちました

次男の妹『ゆず』が我が家に来てちょうど二週間が経ちました。

毎日、次男が朝晩エサをあげる役目を。犬を飼う目的として

次男の自立や成長を期待していましたが、少しずつではありますが

日常生活態度の改善に繋がっています。少年団においても仲間の

為に頑張るようになり努力も怠らないようになりました。お兄ちゃん

としての自覚も芽生えてきたようです(^_^;)。苦労して飼った甲斐が

ありました。次男の為にということだったのですが、家族全員が

『ゆず』にメロメロ。かわいい『ゆず』に癒されています。ペットは

いいものですね。子供とペットを同じように扱う保護者がいますが

それだけはお気をつけくださいね。やさぐれていた私でしたが次男の

おかげで少しだけ心穏やかな毎日を過ごせています。感謝、感謝。

あとは次男がもっと成長してくれれば(^_^;)。お利口さん度が『ゆず』

に越されないか心配してますが(^_^;)。

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昨日の3・11や身近に起きたことを踏まえ、改めて命に

ついて考えさせられる一日でした。今与えられている命を

どのように使うのか、生かすのか、過ごすのか。それぞれ

ですが。

常任委員会(建設消防委員会)

常任委員会(建設消防委員会)

3・11

10年前の3月11日。私は宮之城の橋梁現場にいました。現場作業員用の

3時休憩のお茶をコンビニに買いに言っている時に会社の事務員から電話が。

事務員『現場は大丈夫ですか?』

た『えっ?どうしたの?』

事務員『東北のほうで地震があって大変なことに』

た『こちらは全然、大丈夫ですよ』と。それにしてもなんでそんなに

大騒ぎを?現場に帰り、テレビをつけると大地震の状況や津波に街が

のまれていく映像が。衝撃的でした。昨日からテレビで当時の映像が

流れていますが、胸が痛くなります。本日は委員会審査でしたが、

午後2時46分にサイレン。それに合わせ審査を中断し、起立のうえ黙祷。

黙祷中、サイレンの音が被災者の悲痛な叫びにも聞こえ涙が出ました。

現在、コロナ禍で日本中が非日常となってますが、あの震災に遭われた

方々はあれから10年非日常の生活。今朝もテレビ報道の中で被災者の

インタビューがありましたが、『あれからというもの心から笑ったこと

はない』、『あたり前だと思っていたことがあたり前じゃないということ』。

昨日、紹介した武田さんも毎日が復興に向けて真剣勝負。何か出来ることが

あるなら協力してあげたいと改めて想う一日でした。今日もあたり前のことが

あたり前のようにあることに感謝しながら。

 

 

武田憲和さん

夕方のニュースを中々、見る機会がないのですがやはり縁がある

のか。映っていたのは私が大好きな武田憲和さん。元鹿児島市土木技師↓。

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武田さんとの出会いは、私が民間会社に勤めている時のある市役所の

現場の担当が武田さんでした。当時からとても熱い方で、市の税金を使う

公共事業に対する熱意がバリバリ。公務員にもこんなに熱く仕事をする人

がいるんだなぁというのが第一印象でした。それからというもの何度か

現場の担当に。私はどの現場においても熱意をもって頑張ってきたつもり

ですが、特に武田さんの現場は絶対に恥をかかせない、どこの現場よりも

完璧に作りあげてやるという意気込みで臨んでいました。一緒になって

同じ想いで鹿児島市のまちづくりをすることが幸せでした。私が議員に

なってからも、よくこれからの鹿児島のことについて熱く語り合う日々。

そんな熱い武田さんは自ら志願し、鹿児島市が派遣する石巻市の復興へ。

2012年と2016年に。それからまた本市の建設局職員として頑張っておられた

のですが、石巻市の復興を最後までやり遂げたいという想いで鹿児島市を

退職し、石巻市の職員に。私には内緒でした。最近、市役所で見ないなと

思い他の職員に尋ねると・・・。涙がでました。以前は一民間人と職員、

そして今度は議員と職員という形でこれからの鹿児島を造っていくはず

だったのに(-_-;)。いつ連絡をしようかと迷っていると、昨年の選挙期間中に

私を元気づけるために武田さんから連絡が。当選後も直ぐに。こんな関係。

だから久しぶりに映像ででしたが武田さんに会えて大泣きしました。そして、

単身で石巻市の復興に立ち向かう姿を見て、生きる意義というか生きる原点と

いうか。自分も鹿児島市の為に市民のみなさんの為に頑張っているつもりなん

ですが、武田さんに比べればまだまだですね。武田さん、どうかお身体には気を

つけて。お互いやるだけやって悔いのないように。また逢える日を楽しみに

しております。こんなに熱い鹿児島人がいること、そんな方と一緒に仕事をして

語り合えたこと。武田憲和さんは私の誇りです。