昨日、10年表彰をいただきましたが、なぜ、私が
議員になったのか経緯等をご紹介しようかと。かなり
長くなると思いますがご一読いただければ。
11年前のこと。当時私は33歳。次男坊が産まれた
のはその年の4月。建設会社に勤めておりました。
そろそろ独立しようと考えていた矢先、自分の営業成績
のことしか考えない上司に腹をたて言い合いになり(^_^;)。
そのまま帰宅し、お乳を飲ませている妻の前で退職届を。
妻『どうしたの?』
太『頭にきたのでもう辞めて独立する』
妻『辞めるの(-_-;)』
次男坊が産まれたばかりだったのでかなり不安そうな
顔つきの妻。その上司に退職届をたたきつけ6月に退社。
私も正直、不安でしたが仕事の依頼が止まらなく。妻と
『こんなことなら早く会社を辞めれば良かったね』と
話をしたことが思い出されます。ちょうどその時期に
校区内に住む90歳のおじいさんが我が家に足を運ぶように。
お『来年の4月に市議会議員選挙があるからお前出れ』
太『何を言ってるの?自分は土木関係の仕事だし議員なんて』
お『このままでは鹿児島市はダメになる、気張らんか』
太『とにかく意味がわからないから(^_^;)またね』
こんなやり取りをしたのがちょうど会社を退社した6月頃。
それからというもの、そのおじいさんが定期的に通う
ようになり、同じやり取りが繰り返され。あまりにも
しつこく、当時、私の父に相談してみましたが。
太『あのさー、市議会議員になれっていうのだけどどうけ?』
父『何を馬鹿なことを言っているのよ‼』
太『やっぱりそうだよね(^_^;)』こんな会話をしたのが8月下旬。
それからもおじいさんが通いつめ。確か、10月に中学の
時のクラス会を開催。その時に、議員の話があることをみんな
に報告。てっきり笑われるかと思っていたのですが↓。
同『太ちゃんが議員をするならなんか変えてくれるんじゃないか』
同『全然、政治に興味はなかったけど太ちゃんがするなら楽しみ』
同『結婚して子どももいるけど大変なことばかりだよね』等々、
様々な意見をいただき。みんながこんなに思ってくれ、世の中に
不満があるならやるべきなのか?自分が一肌脱ぐべきでは?
その後も相変わらず通い続けるおじいちゃん。この人生の先輩の
想いも簡単に断って良いものだろうか?このような心境の変化。
結局、11月に正式に翌年4月にある市議会議員選挙に立候補
することを決意。選挙までのこり約5、6カ月しかなく(-_-;)。
しかも何をしていいのか全く分からず。人生の先輩のアドバイスで
とりあえず始めたのが辻立ち。ご存じのように下伊敷の交差点で
リンゴ箱のうえに乗って。雨の日も寒い日も毎日。その他、校区内
をひたすら巡り挨拶。かなりキツイ言葉をかけられ(-_-;)↓。
太『今度の市議会議員選挙に立候補することになりました』
太『米山たいすけです。宜しくお願い致します』
『選挙はいつだと思っているのよ、選挙をなめてるのか~』等。
1月頃には、知人の知り合いで選挙のプロの方がいらっしゃった
ので来ていただき、何をすればいいのかレクチャーを。その方は
現職市議会議員の選挙の事務局長でしたが、あまりにも何も
準備が出来ていない状況に鼻で笑われたのを覚えています。
ホワイトボードにスケジュールを描いていただき、
事『これはやったの?』
太『まだです』
事『それならこれは?』
太『それもまだです(-_-;)』
事『こんなことはうちの事務所は一年前には準備済み』
太『知らないことばかりですみません』
事『今回は当選無理でしょ』
太『ご指導いただきありがとうございました』
こんなやり取りでかなり凹んだことを覚えています。
結局、他の候補者とは全く比べ物にならないぐらいの準備状況。
そんな感じでした。しかも、無所属だったので支援者の方々も
選挙にはド素人軍団。そんな中、投票最終日を迎え。くしくも
その日は次男坊の一歳の誕生日。時間はありませんでしたが
やるだけはやったので悔いはなし。投票日は緊張することもなく
苦労をかけた家族を連れて遊びに行ったことを思い出します。
あとは世の中に私を必要とするなら神様が当選させるだろうし、
不必要なら落選させるだろうしと。結果は3,724票、立候補者60名
のうち33位(当時の定員数50名)という結果。このときもみなさん
のおかげしかない奇跡的な当選でした。ちなみに、この選挙で
私のところにレクチャーに来てくだり鼻で笑って帰っていった
事務局長さんの応援している議員さんは落選してましたが(^_^;)。
当選してからというもの、自民党の国会議員、県議会議員、
市議会議員の方々にずっと勧誘され。当時、議員のイメージと
して長い物に巻かれたら自分じゃなくなる、せっかく何もない
私に期待してをして投票してくださった方々や同級生に申し訳
ないとという想いがあり無所属を貫き。あっという間に4年が
過ぎ2期目の選挙。おかげさまで一回目の選挙よりは上位で
当選させていただき。早速、自民党の方々から声をかけていた
だきましたが、私が市議会の中にいて感じたのが、この議会を
影で回しているのが民主会派のみなさん。自民党に入る前に
この先輩方のもとで勉強をしたいと。それは自分の為ではなく
市民のために。この先輩方にご指導いただければ必ず市民の役
に立つ議員になれるとの想いで。勉強嫌いな私ですが(^_^;)。
もちろん、いずれ自民党に入ることを申したうえでお願いした
ところ快く引き取ってくださった前会派の先輩方。そうそう、
その時には、これまでずっと声をかけてくださっていた故保岡
興治国会議員のところにも事情を説明に行き、
保『そんなことなら頑張っておいで。そして必ず帰っておいで』
とこちらも快く送り出してくださったことを思い出します。
そのような経緯があり、今年の4月まで市民連合会派に所属。
これまでの6年間、その先輩方には本当に色々な事を指導して
いただき感謝しかありません。議員としての自分があるのは
この先輩方があってこそと言っても過言ではありません。
会派を離れるのは非常に心苦しかったですが、そろそろ
自民党に入党し、市民要望や議会運営だけに限らず、政治と
いうものに関わり、より市民の為に命を注ぐ時がきたのでは
という想いになり、今年の5月に自民党へ入党させていただく
ことになりました。簡潔にしたものの文面が長くなりましたが
少しはお分かりいただけたでしょうか?これが私が議員になった
経緯から現在までです。正直、市民生活には政党は関係ないという
思いもあります。一番大事なのは市民への想いがどれだけあるか
ということ。いつも言いますが人様に対する想いが消えないうちに、
もっともっと出来るだけたくさんの人を笑顔にしたいという想い
です。これは私が議員になってからというか、物心ついたときから
一切変わっておりません。これからも変わらぬ『熱い心と行動力』
で精進していきますので宜しくお願い致します。私の名刺です↓。